第5回棚倉平和のための戦争展
棚倉町中央公民館 2009年8月9日〜12日
    棚倉平和のための戦争展実行委員会から非営利目的で許可を済。     

焼き尽きされは光景を撮影するジョー・オダネル氏  撮影者(ジョー・オダネル氏?)不詳
19459月。この焼夷弾で焼き尽くされた日本の都市で目についた一番高いビルの屋上に登った時、私は23の海兵隊カメラマンだった。この写真を撮っていた時、更にすさまじい光景が広島と長崎で私を待ち構えているとは知る由もなかなかった。

ジョー・オダネル氏略歴

 19225月、アメリカ・ペンシルバニア州ジョンズタウン生まれ。

 19416月、ペンシルバニア州ジョンズタウン・ハイスクール卒業後、ジョンズタウン・デイリー・トリビューン社で暗室係として働き、その年の12月にアメリカ合衆国海兵隊に志願する。

19422月より従軍カメラマンとして、ボストンのマサチューセッツエ科大学などで現像の技術を学び、フロリダ州ペンサコーラをはじめ、国内で航空写真撮影の訓練を受ける。

 19459月、占領軍のカメラマンとして広島・長崎その他、空爆による日本の都市の被災状況を記録する任務を与えられ、終戦直後の日本へ上陸した。その後、7ヵ月間、軍の記録写真とするために広島・長崎など焦土と化した日本各地を撮影した。

19463月、帰国し除隊。私用カメラで撮影したフィルムを自宅へ持ち帰り、その見るにたえない悲惨な写真をトランクにしまう。

19497月より、アメリカ合衆国情報局に籍を置き、ホワイトハウス付きのカメラマンとしてトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの5代の大統領に仕えた。「老兵は消えゆくのみ」のマッカーサー、「私には夢がある」と熱っぽく語ったキング牧師、ケネディ暗殺の後、大統領機から血に染まったピンクのスーツで降り立つジャクリーン夫人など、数々の歴史的瞬間をカメラでとらえた。19688月、健康上の都合により退職。

1989年、反核を訴えて作られた炎に焼かれるキリスト像に心打たれ、屋根裏にしまい込んだままのトランクを開ける。

19908月、原爆写真展をテネシー州ナッシュビルで開く。勇気ある行動と評価される一方、原爆を正当なものと教育されているアメリカ人からは非難される。

1995年夏にスミソニアン博物館で企画されていた写真展は、アメリカ国内の在郷軍人の声、マスコミの論調などによってエノラ・ゲイ以外の展示が中止に追い込まれる。その後、この写真展を世界で開催し、歴史の証言者として講演活動を続ける。日本でも10年以上にわたり、「ジョー・オダネル写真展トランクの中の日本」が開催される。

200789日、くしくも長崎の原爆投下の日、アメリカのテネシー州ナッシュビルで86歳の生涯を閉じる。同年8月長崎の原水爆禁止世界大会で同写真展が開催される。長崎原爆資料館に「焼き場に立つ少年」の写真が寄贈される。10月、日本のテレビ番組で特集が組まれ『トランクの中の日本』が紹介され、再び話題を集める。

(小学館「トランクの中の日本」所収)


死亡した弟を背負い焼き(火葬)場の前に立つ(順番待ち)少年  ジョー・オダネル氏撮影

焼き場にて、長崎

 この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。
 アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。
 そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。

 


ジョー・オダネル氏撮影

 両親ばかりか兄や姉を亡くした多くの子供たちがいた。この子供たちもそうである。私たちはそんな子供たちを原爆孤児と呼んだ。写真を撮った後でポケットに手を入れるとリンゴがあったので、私はそのリンゴを彼らに与えた。一番年かさの子供がにこりともせずリンゴをひったくるとガブリと齧った。

 それから、驚いたことに、次の子に手渡した。彼がガブリと一噛みした時、一群のハエがリンゴに群がりきて瞬く間にリンゴを覆ってしまった。私は吐き気がして目をそらせたのだが、子供たちは気にする様子もなく、黙ってじっと自分の順番が回ってくるのを待っていた。


ジョー・オダネル氏撮影

 私はこのように若い子供たちが赤ん坊を背負っているのに驚いた。アメリカでは決して見かけることのない光景だった。この子達は文句を言うでもなく日々の生活に明け暮れていた。全ての学校は原爆で破壊されたため、親の手伝いや道路清掃をしながら一生懸命弟や妹の面倒をみていた。

ここが国産原爆製造現場だ

第5回棚倉平和のための戦争展から


石川町民族資料館より


石川町民族資料館より

日本でも原子爆弾の製造は可能だった。

わが国の原子爆弾(以下原爆)の研究は、昭和16年ころから軍の依頬で、およそ五部門で進められていたが、その全貌について知っているものは、ごくわずかな人に限られていた。

兵器行政本部−@第八陸軍技研研究所−分室(現学法石川高等学校)

(理研希元素工業所第806工場)−石川町

陸軍航空本部(陸軍技術研究所)

A理化学研究所

B東大、東嵯峨根遼吉研究室(ウラン分離研究、電磁分離法)

C阪大、菊地正士研究室(分離器の研究・開発)

海軍技術研究所

 D京大、荒勝文策研究室(F号研究)

陸軍航空本部は、理化学硫究所(以下理研)の所長、仁科芳雄博士にウラソ爆弾の研究を依頼していたが、2年半余りその研究は進められていなかった。本格的に研究が始まったのは、19年6月からである。陸軍航空本部(技術研究所)は「原子爆弾に関する研究」を理研の仁科研究室に委託した。理研では玉木英彦氏が核分裂の連鎖反応に関する計算を行い、原爆製造の可能性は十分ある、との報告書を航空本部の鈴木辰三郎氏(戦後防衛庁勤務後、明星大教授)を通じて同所長安田武雄中将に提出した。理研の報告書は、「ウラン235の核爆発で黄色の火薬の1万8千トンの爆発力のあること、ウラン235を分裂するためには六フッ化ウランガスを用いて熱拡散(軽いウラン235は上に、軽い237は下になる)方法が適当であること、分離筒は金メッキか銀メッキ。銅でも可能か研究が必要一というものであった。




撮影場所福島県石川町塩ノ平  (石川町民族資料館より)


現在の塩ノ平  勤労学徒で生き証人の石川町大字形見 有賀 究氏(右後ろ姿)2009年8月9日撮影



勤労学徒で生き証人の石川町大字形見 有賀 究(きわむ)氏の説明動画をご覧ください。
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